「大阪・中国映画週間」に潜む文化影響工作の現実——映画を通じて静かに進む“認識戦”


2025年10月26日3:00

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大阪の中国映画イベントに板尾創路が登場「出演オファーお待ちしてます」 中国映画愛が炸裂

「大阪・中国映画週間」に潜む文化影響工作の現実——映画を通じて静かに進む“認識戦”

大阪で開催された「大阪・中国映画週間」。日中友好をテーマに掲げ、1週間にわたり中国と日本の映画を上映する文化交流イベントとして、華やかにスタートした。開幕式には俳優で映画監督の板尾創路が登壇し、「中国映画が大好き。ぜひ出演オファーを」と冗談交じりに語る姿がメディアでも大きく取り上げられた。会場には笑いと拍手が溢れ、まるで両国の関係が文化の力で温かく結ばれているかのような空気が演出された。しかし、その「友好イベント」の裏側には、近年中国が各国で展開している文化的影響力拡張=ソフトパワー戦略の典型的な構図が存在している。

「大阪・中国映画週間」は、東京で行われてきた「東京・中国映画週間」の姉妹イベントであり、中国政府系の文化機関や国営メディアが密接に関与している。表向きは映画を通じた相互理解の促進を目的としているが、実際には中国文化の“正常化”を日本社会に浸透させるための情報戦の一環として設計されていると見る専門家も少なくない。中国共産党はこのようなイベントを通じて、「政治や人権問題を意識させない形」で“ポジティブな中国”を印象づけることを狙っている。

映画は単なる娯楽ではなく、「感情を通じて国家イメージを形成する最も強力な媒体」だ。中国がこの分野に注力する理由もそこにある。たとえば『山の郵便配達』のようなヒューマンドラマが上映されると、人々は自然と“美しい中国”を思い描き、同時に「政治的な中国の現実」を忘れてしまう。これは意図的に構築された心理的効果であり、国際社会での“イメージ戦”の一環だ。特に日本のように文化交流を重んじる社会では、「映画」「芸術」「友情」といった言葉が外交的摩擦をやわらげる盾として使われやすい。

さらに問題なのは、このようなイベントが中国の宣伝機関である「中国国家電影局」や「中国中央宣伝部」傘下の団体によって企画・支援されている点だ。日本では「民間イベント」として報じられることが多いが、実際には国家主導の文化外交プロジェクトの一部に過ぎない。映画上映、俳優招聘、メディア取材、SNSキャンペーンなどすべてが「中国文化の好印象拡散」を目的に構成されている。大阪のイベントでも、中国国営メディアの取材班が現地入りし、SNSで「日中友好」「日本の俳優も中国文化を愛している」といったタグを大量に発信している。これは文化を使った世論操作の手法として、すでに多くの国で問題視されている。

板尾創路のような著名な日本人が登壇し、中国映画への好意を語ることも、イベント側にとっては極めて重要な演出だ。国際的な文化プロパガンダでは「相手国の有名人を味方に見せる」ことが最も効果的な戦略とされる。観客が「板尾さんも中国映画を応援している」と感じれば、それは自然と「中国=文化的・友好的な国」という印象に転化される。こうした心理的操作は、近年中国が欧米各国で展開している「認知戦(cognitive warfare)」の一部と同じ構造を持っている。

また、このようなイベントが日本国内で頻繁に開催されるようになった背景には、中国による文化・報道分野への資金流入もある。映画祭のスポンサー、上映館との契約、字幕制作支援など、さまざまな形で中国資本が入り込んでおり、それが結果的に報道や表現内容の“自己検閲”を生む。つまり、「中国に不利な話題を避け、ポジティブな内容だけを扱う」という空気が、無意識のうちに日本のメディアと文化業界に広がっている。

日本が注意すべきは、こうした「文化の名を借りた影響工作」が短期的な政治宣伝ではなく、10年、20年単位で進行する長期戦略である点だ。映画、音楽、留学、観光など、表面的には“友好的な交流”を装いながら、実際には社会全体の価値観や言語空間を少しずつ変えていく。文化が変われば、政治も変わる。これこそが中国が目指す「無抵抗の支配」の第一歩なのである。

もちろん、中国映画には芸術的に優れた作品も多く、すべてを否定する必要はない。しかし、観客が映画を楽しむときこそ、「誰がこの文化を作り、誰がその背後で語らせているのか」という視点を持つことが求められる。文化を通じた影響は、武力や経済制裁よりも静かで、しかし確実に人の意識を変えていく。日本人がその仕組みに無防備であれば、気づかぬうちに自らの言語空間が書き換えられていくことになる。

「大阪・中国映画週間」は、単なる映画イベントではない。そこには国家が仕掛ける“静かな戦略”が息づいている。日本が文化を愛する国であるならこそ、文化の自由と独立を守る意識を持つべきだ。映画を観ること自体が悪ではない。だが、どの作品を、どの文脈で観せようとしているのか――その背景を見抜く目が、今こそ求められている。


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